ボローニャ大学教授でもあるウンベルト・エーコの同名小説をジャン=ジャック・アノーが映画化。難解な小説をかくも見事に映像化した。あっぱれ!少年時代から修道院や教会おたくだった監督は舞台となる修道院から八角形の塔など大掛かりなセットを作り上げ、見事な彫刻なども中世の時代を再現してみせた。修道服もモロッコで作らせたという。羊紙皮に描かれた写本も全て実際の修道士に描かせたものらしく準備だけでも2年間を費やしたという。製作者のベルント・アイヒンガー(あの「パヒューム」の映画化にも尽力したドイツ人プロデューサー)は自宅や不動産を抵当に入れてアノー監督に協力したという。細かなディテールに至るまで監督のこだわりが詰まっており、それだけでも見る価値がある作品だ。原作は複雑な経緯をたどった書物という形をとっており、多分その時代の公用語であったラテン語で描かれたアドソの手記をフランス語訳したものがエーコの手に渡り、それを彼自身がイタリア語で書いたという。(勿論作者の企みであるが)時代背景をちょっとおさらいしなければならないが、舞台となる1327年といえば、ペストの大流行によりヨーロッパの人口が四分の一に減少したという暗黒の時代である。時の法王ヨハネス22世はフランチェスコ会を異端とみなすようになる。両者の間で「キリストの衣服は財産か?」「それはキリストの私物である」「私物は所有物であるから財産だ」などという<清貧論争>が行われたのだが、フランチェスコ会修道士のウィリアム・バスカヴィル(ショーン・コネリー)は両者の調停を依頼されて、北イタリアのベネディクト会修道院に弟子でベネディクト会の修練士メルクのアドソ(クリスチャン・スレーターはこの時16歳と初々しい)を連れてやってくる。アッポーネ修道院長(ミシェル・ロンスダール)は言いにくそうに図書館から挿絵画家をしていた若い修道士が落下したと言う。ウェリアムは依頼とは別の殺人事件の推理をすることとなるのだった。早速、その修道士が落下したという場所に行ってみる。そこは急な斜面で、ちょうど貧しい村人たちが修道士たちの残飯を拾いにやってきていた。そこに一人の美しい少女(ヴァレンティナ・ヴァルガス)と目が合うアドソ(クリスチャン・スレーターは本当にこの美しい少女に恋をしたらしい。)次にウィリアムは写字室(スクリプトリウム)へ行く。死んだ修道士の机には描きかけの挿絵があり、ウィリアムはメガネの奥から「死んだ男はユーモアのある男だったようだ。」と言う。アドソが見るとそこには司教の冠に猿が描かれていた。他の羊紙皮も見ようとすると司書のマラキーア(フォルカー・プレシュテル)が書物を載せるのだった。太った副司書のベレンガーがネズミに悲鳴を上げると笑う修道士たち。それを叱責する盲目の長老ブルゴスのホルヘ(フェオドール=シャリアピン・ジュニアは由緒ある裕福な老人だったが、75歳で俳優デビューをし、この時81歳だったという)は「笑いは悪である!」と激怒する。ウィリアムはこの老人が事件のカギを握っているとにらむのだが・・・・・。そして第二の殺人が起きる。ギリシア語翻訳をしていたヴェナンツオ(ウルス・アルサマ)が血の樽に逆さまになった死体で発見される。指には黒いシミがついていた。夜半、二人は写字室で謎解きをしていると何者かが一冊の本を盗み出す。それを追跡するアドソ。犯人を見失ったアドソはあの少女に出くわす。少女に誘われて初体験をするアドソ。偶然からアドソは塔へと通じる秘密の通路を見つけてしまう。それこそが<迷宮図書館>への道だったのだ。ウィリアムはそこにこそ事件の手がかりがあると確信する。エッシャーの階段絵のように、物語は見せかけの入れ子になっているのだ。清貧であることをモットーとしているはずの修道院が貧しい者から税を搾取したり、食料と引き換えに女の肉体を貪っているのも皮肉だ。名もなき薔薇は少女だという解釈もある。少女の名はない。だがアドソにとっては最初で最後の女だったのである。